宝宗寺坐禅会資料                           2007.5/19

 

西嶋先生の仏道学の特徴と現代的意義

(私的理解)

 

1.始めに

 「仏教学」ではなく、「仏道学」としたのは、西嶋先生の教えが仏教哲学の解釈、講話ではなく、「坐禅を生きる」と言うことを目的として、「それが目的となる理由は何故か? それによってどのような効果が得られるのか?」を説き続けられたからである。即ち、「釈尊や道元禅師の教え」を解説すると言うことではなく、「釈尊や道元禅師の日常行動を追体験する」ために、釈尊から道元禅師を経て、現在の我々に示されている「坐禅を実践して生きる」ことの素晴らしさを我々に提示されたのが西嶋先生である。それを明示するために、即ち仏祖の行履(先哲の行動)を学ぶための「学」であることを明快するために、敢えて「仏道学」とした。

 

[参考文献]

@「坐禅のやり方」(改訂版、1983年)

「坐禅によって、釈尊と同じ心身のリズムを自分の心身に浸み込ませること、これが仏教徒にとっての最大の修行であり、何物にも換えがたい最高の価値である。」(23頁)

「一切を坐禅に打ちまかせ、戒律の問題さえも念頭に置かないことが、坐禅生活を送る者の態度である。

  (中略)

 ただ坐禅さえやっておれば、香を焚くことも、礼拝をすることも、念仏をすることも、懺悔をすることも、教典を読むことも全く不要である。しかし、一般には、このような第二次的な「ほとけいじり」には熱心であるが、もっとも肝腎な坐禅そのものはこれを毛嫌いしてなかなかやろうとしない人があまりにも多い。これは全くの本末転倒であり、このような誤りに陥ち入ることがないよう、われわれは充分な注意を払う必要がある。」(24頁)

A「仏道講話 仏道は実在論である」(1989年)

「「仏道」と言うのは、「仏教」も、「仏法」も、「仏行」も全部包み込んだ教えとして使われると見ることが出来ます。

 ですから「仏道」というのは、非常に包括的な、釈尊の教えに関するほとんどすべての問題を包み込んだ立場だと言えるわけであ(る)・・。」(7頁)

B「仏道講話 仏道は実在論である」(1989年)5〜6頁

      仏教:釈尊の教え、言葉に表された教え、理論

 

 仏道   仏法:釈尊の説かれた現実世界の在り様(科学的立場で説明できる)

 

      仏行:釈尊の行動(人間がどう言う行いをしなければならないか)

         「七仏通戒喝」


2.西嶋仏道学の特徴

(1)概要(私見)
 西嶋先生の「現代語訳正法眼蔵」に見られる如く、難しい漢訳の仏教用語が、伝統的な仏教用語解説を離れて、分かり易い用語に置き換えられている。例えば、「諸仏如来」を「仏教界の真理体得者や諸先輩」と訳されている。

 このように、西嶋先生は、「道元禅師が現代に生きておられたならば、現代の知識、学問の成果の上に立って、どのような表現で話をされるであろうか。」と考えられて、正法眼蔵の内容を科学的な基盤の上に立った説明をされている。そのため、従来の伝統的な漢訳仏教用語の言い換えを離れて、「仏道を生きるために、この正法眼蔵の中身をどう理解するか。」と言う視点で、解釈を進められている。

 即ち、文章に関する単なる訓詁注釈ではなく、「現代に生きている道元禅師であれば、仏道の説明をこのような表現で行ったであろう。」と言うような形で、現代語訳がなされている。そして、「さとり()」や「自受用三昧」とは、実体は「自律神経のバランスした状態」、「交感神経と副交感神経のバランスした状態」のことを言うと説明されている。このように、西嶋先生は、道元禅師、あるいは釈尊の説かれた思想を、現代の科学的な言葉で、できるだけ分かりやすく説明されようとしている(@)。
 坐禅の体験を基準にして、原文を何回も忠実に読み込むことによって、正法眼蔵に描き出された思想を自分のものにできる(A、B)。そして、その思想に従って、今を充実して生きることが出来る、と西嶋先生は指摘されている。

 即ち、今までの伝統的な訓詁注釈を中心とする仏教理解では、「仏いじり」に終始しやすく、仏道を生きることが難しくなる。それ故、科学的な仏教理解(生理学的解釈)が、仏教を正しく理解するのに必要であると言われている(C)。
 更に、個人的に言えば、現在は脳科学や心理学、生理学、生物学、進化経済学等、多くの分野で飛躍的に科学的知見が集積し学問が発展しつつある。このような学問の前提もなく、伝統的な訓詁注釈を中心に正法眼蔵や他の仏典を解釈することは、もはや時代錯誤である。
 即ち、西嶋先生の仏教解釈は、以下のように新たな地平を切り開くものであり、伝統的な訓詁注釈の呪縛から我々を解き放つものであった。


[従来の仏教理解]

    漢訳教典の伝統的訓詁注釈 ⇒ 各宗門の伝統的教学

    (伝統的な存在論、認識論)  それぞれのドグマチィックな教え

               本当に釈尊や道元禅師の教えが伝わっているか疑問。
               聴いてまとめる人間の力量次第で変容する。

    学問としては時間つぶしが出来て面白いかもしれないが、
    今を生きるために苦闘している人間にとって、現実を切り開く手段になって
    いない。


[西嶋先生の仏教理解]

       (仏教理解のコペルニクス的大転回)
        (「仏いじり」からの開放)

    伝統的教学         生理学的な理解(自律神経のバランス)

    ・存在論
    ・認識論   ドグマ      科学的基盤の上に
    ・時間論     

                  仏教理論の科学的再構築と科学的理解

 
                         伝統教学からの開放と独立
 
                  現代を生きる我々に必要な仏教理論

 

[参考文献]

@「本書が・・・「正法眼蔵」の科学的な探求に関する一つの契機となり、新しい分析的研究の端緒となるならば、訳者として非常な喜びである。」(現代語訳正法眼蔵第1巻はしがき)

更に、(緒論 正法眼蔵解明の方法について)を参照。
A「古い注釈書を当てにして、注釈書通りに読もうとしたら、「正法眼蔵」の本当の意味は分からんと思います。・・・・・ですから、古い注釈を当てにして「正法眼蔵」を読むということが、たくさんの仏道修行のつまずきの石になっておるというのが、私の見方です。・・・」(仏道講話()「仏道は実在論である」34-35頁)
B「仏教という宗教には、二千数百年以前の釈尊以来、極めて明確な思想体系があり、それらの思想体系が今日では、皮肉なことではありますが西洋哲学における諸概念を使うことにより、極めて理論的に解き明かせることになりましたところから、その理論的に疑いようのない明確な仏教という思想体系を一人でも多くの人々にお伝えして、坐禅の実修にともども進んでことを念願したまでであります。」(「サラリーマンのための坐禅入門」92頁)
C「愚道老人 仏教問答」96102
D「宗教的な考え方も、科学的な考え方も、現実と言うもののそれぞれの顔である。宗教が現実の一つの顔であるとするならば、科学は同じ現実の別の顔である。だから、現実の存在を信じるならば、現実を中心にして、宗教的な考え方と科学的な考え方を統一することが可能だと言う捉え方が、仏教という思想の一つの特徴をなしておるわけであります。
 ・・・仏教的な考え方を取り入れるならば、つまり現実というものを信ずるならば、その現実を信ずるという考え方を基礎にして、宗教、つまり、人間の頭の中に生まれた思想と人間が感覚を使ってとらえた物質の世界とは、一つのものの裏表に過ぎないと言う考え方が生まれてきて、そこで宗教と科学との統一が可能になると言う事態があるわけであります。
 ・・・来るべき時代というものは、おそらく従来の宗教的な考え方と科学的な考え方とが、一つのものに統一される時代であろうと言うことが考えられて、その点で、そういう時代の流れの中心をなすものが何かというならば、物の面と心の面とを一つに総合した、仏教的な考え方にならざるを得ないのではないか・・・」(「仏道講話(四)世界と仏道」188189頁)

 

(2)西嶋先生の仏道(仏教)の捉え方

 「仏道(仏教)を学ぶ。」=「仏道(仏教)を実践する。」

 

 [仏道の目指す所](@)

   自分の置かれた環境の下、
   自分を偽らず、伸び伸びと   「すなわち、自受用三昧、その標準なり。」
   苦しむことなく生きること。    (弁道話の冒頭)

 

        仏道(仏教)を学ぶ(実践する)ための方法(A)

 

     @戒:生活のリズムを保つこと(B)
  三学 A定:心のバランスを保つこと(C)
     B慧:情報を集め整理し、自分の周りの状況を把握すること
         @聞:外部の現実の情報を集める、人にものを尋ねる、
            (人と対話し、自分のさび・垢を落とす。)
      三慧 A思:集めた情報を整理し、分析し、選択すること
            (人の話の受け売りではなく、自分の生き方を構築する。)
         B修:自分が実践し、体験して、情報の適否を検証すること
            (失敗して人間は物事が見えるようになる。)
        
      現代の科学的理解:「失敗学」(畑村洋太郎)等、

   (慧の対象、内容/個人的理解) 
       1)自分が何をしたいのかを明らかにする。⇒発心

       2)自分の環境と立脚点を明らかにする。
        外部(外界):存在論/説一切有部 
               認識論        ⇒ 現代の科学的理解へ
        自己(能力):自己の発見/唯識
       3)生きるための基礎(常識)を  ⇒ 仏教の考え方を知り、
        明らかにし、身に付ける。     身に付け、実践する。
       (旧い信仰の放棄、新しい信仰への転換)
                          ・中道

          現代的、科学的理解を      ・四諦    行動原理
          出来る限り行い、実践      ・十二因縁
          しやすいようにする。      ・八正道


[参考文献]

@「自分の考え方を一生懸命大事にして努力しても、現実につまずく。それじゃしょうがないからと、現実に流されていけばいいかというと、生きがいがなくなってくる。
 釈尊は、われわれの住んでいる世界での生き方について、こういう二つの陥りやすい溝があると言うことに気づかれて、その両方から離れることを主張された。
 そのことが、現実をよく見ろ、現実というもの、法というもの、それをよく見て、その法に従って生きていくことが、人間にとっての唯一の幸福な道だと言う主張につながるわけであります。
 だから、あれこれと人間が希望を持って一生懸命夢を描くことは、もちろん大切な人間の営みではありますが、その夢を実現するためには、現実と言うものを良く勉強しなければならない。
 その現実を良く勉強した上で、夢を実現していく。「現実」と「夢」と両方を自分の中に持って、夢を忘れないと同時に、現実離れをした生き方をしないということ。現実を良く見て、現実そのものに教えられて生きていくと言うことが、われわれの人生を幸福にする道だと、釈尊は説かれたわけであります。」(「正法眼蔵を語る/弁道話」67頁)
A「一つの方法としては、自分の体というものを「法」という現実の世界の中に正しく置いて、その正しく置いた状態を通して法というものを学ぶ、現実というものを学ぶということ、これが釈尊の説かれたところなのです。
 そういう現実と言うものが身についてくれば、正しさと言うものが身についてくれば、それを基準にして自然に自分の体が動く、間違いのない方向に自然に動く。頭の中で考えて、これがいい、あれがいいと思っても、人間と言うのはなかなか実行できない。これは悪いからやりたくない、辞めましょうと思っても、ついついやってしまうのが人間であります。
 釈尊は、むしろ自分自身の体を整え、心の状態を整え、自然にやることが、法にかなうこと、道にかなうこと、そのことをねらいとされ、そういう生き方が、我々の人生を幸福にする唯一の生き方だと言うことを説かれたわけです。
 だからその点では、坐禅をすることが、仏教・仏道を勉強することの中心的な問題になります。」(「正法眼蔵を語る/弁道話」78頁)

B「仏教における戒律がどう言う意味を持っておるかと言うと、最初の大枠なんです。だから、私はこの戒律というものを説明する場合に、牧場で遊んでいる馬とか、牛とか、羊とか、そういうものを例にとるのです。牧場の外の大枠だ。従って、その中では、牛も、馬も、羊も自由自在に飛びはねて遊べる。ただ、枠を出たら危険だよというのが釈尊の教えです。だからそういう点では、戒律と言うものを我々は仏道信仰の最初に受けるわけですけれども、それは、この範囲は最低限の枠だから、この中で遊びなさいと、こう言うことです。ただ、その枠といえども、しばしば乗り越えるというのは、これは事実です。」(仏道講話(一)仏道は実在論である、124125頁)

C「サラリーマンのための坐禅入門」161172頁(熟読されたし。)


(3)仏教の原則(行動原理)について
@)現実肯定の原則
  仏教は現実肯定の宗教である。(@)
A)中道
  極端を排した、真ん中と言う意味である。(A)
  「仏教における現実尊重と言う考え方は、理想に偏らず、物質に偏らずと言うこ
   とだ。そしてそれが中道と言うことの意味だ。仏教は法という言葉によって、
   理想でもない物質でもない本当の意味での現実世界を捉えている。そしてこの
   現実の世界、即ち法というものに対して絶対の信頼を置くのである。」(B37頁)
  他方、弁証法的な見方も取られている。(C)即ち、中道とは、観念の世界の理想
  や物質とは次元が異なるものとして考えられている。
B)四諦
  これは西嶋先生の独自の考え方であって、伝統的仏教学とは異なるものである。
 [長尾雅人先生の解釈](D)

   仏教ではまず結果的状態を直接把握し、そしてそれが何故であるかを追求する。
   事実を凝視し、自覚し、それを如何に処理すべきかの方法を考察するという、
   いわば帰納的な方法が仏教の考え方の特色の一つである。
       [結果]              [原因]
    挫折や壁にぶち当たった時、      何故、挫折したか、
    初めて自分とは何か、環境       壁の実体は何かということを
    のことを考えることになる。      考える。
 

   a)今の延長線上で生きることは、     やみくもに、これが欲しいと

     解決策がなく、苦しい状況である。   思っていること(単に欲望に
                        負けている)だけではないか?
        苦諦
                  集諦
               原因究明(集諦)
               →→解決策の実践(道諦)
   b)自分らしく、自分の能力を      思い込み的に、こうしたい、こう
     伸び伸び発揮して、明日を      なりたい、と考えないこと。
     目指せること。          (中道にほかならない。具体的には
                       八正道のことである。)
        滅諦                  道諦

 個人的には、
苦諦と滅諦とは八正道の実践をする前と、した後の状況を言う、と
見てよいかと思う。
苦諦は頭の中の観念の世界であり、滅諦とは実践(行動)の後の充足感の世界であると見做せると思う。苦諦と滅諦とは次元の違う世界の話である。
 この四諦という現状把握と対応策の考え方について、畑村先生の「失敗学」の考え方を利用して解釈し直しても面白い。更には、孫子の考え方を利用して解釈し直しても面白いと考える。


 [西嶋先生の解釈](E)

   四諦とは、以下のように独立した4つの考え方の羅列である。

    @苦諦:苦というものを中心としたものの考え方
        理想主義哲学

    A集諦:集というものを中心としたものの考え方
        物質主義ないし唯物論哲学
    B滅諦:滅というものを中心としたものの考え方
        行動の世界から生まれる哲学
        (思惟や理想が滅した世界であり、同時に感覚や物質が滅した世界)
    C道諦:道というものを中心としたものの考え方
        行動や行為が正しさと合致した状態を言う。

  (四諦論のピラミッド) 
           仏道(道諦) 本来の状態に戻る
                 


 
   物質主義
   (集諦)               理想主義  理想を基準にした世界

 現実的な捉え方              (苦諦)   
         仏教  行動の世界
        (滅諦)


  (道元禅しの四段階の教え≒四諦)(F)
   「正法眼蔵」の文章構成方法(四段階の考え方)
     @最初、心の問題、主観の問題として説明される。 ⇒ 苦諦
     A今度は問題を客観的な、事実の問題としてお説きになる。 ⇒ 集諦
     Bそれからその二つを重ね合わせて、現実の日常生活、
      現実の行いの問題として説かれる。           ⇒ 滅諦
     Cその後で三つの考え方を総合して現実そのものを示される。⇒ 道諦


  (「四諦の教え」の活用/効用)(G)
    この考え方は、多くの異なる思想や次元の異なる概念をつなぎ合わせる架け
    橋になる。我々の行動、意思決定を支える力になる。

    例示:@「凡夫の世界」と「仏の世界」をつなぐ架け橋になる。(H)
       A西洋文明と仏道との架け橋(I)
       B理論と行動の架け橋(J)
       C世界平和への架け橋(K)


[参考文献]

@「私は・・・・、仏教は行動を尊重する宗教だということを述べたが、現実世界の肯定ということと行動ということとの間には密接不可分の関係があり、仏教という思想は、この現実とか行動とかという問題を思想の中心においた独自の考え方であって、このような考え方を基礎にして仏教という思想を見直して行かない限り、仏教はいつまでも曖昧模糊とした混迷の中におかれ、われわれにとって本当に分かりいい思想とはなってくれないことを充分に承知しておかなければならない。
 ・・・(中略)・・・ところが仏教は、精神主義にも物質主義にも偏らない現実主義に立脚した思想である。従って仏教は現実主義に立脚した思想であると言う基本原則を肝に銘じて仏教の理解に取り組むのでなければ、たとえ何千年かかろうと、たとえ何万年かかろうと仏教うぃ理解することは出来ないであろう。しかも逆に仏教を行動主義、現実主義の思想として理解しようとする立場に立つならば、仏教という思想は、それほど難解な思想ではないし、まして不可解な思想ではない。」(愚道老人 仏教問答)2728頁」

A「仏教思想の基本を表す一つの言葉として、中道という言葉がありますが、これは実は先尼外道的な唯心論と六師外道的な唯物論とのちょうど中間に正しい生き方があることを示された言葉でありまして、仏教がこの左右の両極端に存在する二つの思想を共に正しくないとして、その中間に真実を求めた態度を端的に表す言葉であります。」(「サラリーマンのための坐禅入門」143144頁)
B「仏教に対する理解もある程度進んだ段階では、仏教思想の中で中道と言う思想が占める重要度を非常に強く感じるようになり、中道と言う思想に対する理解が進まない限り、仏教に対する理解も進む筈がないとさえ感じている。」(愚道老人 仏教問答)31頁」

C「このように最初の説法で中道と言う言葉が先ず出て参りますが、この中道と言う言葉は大変重要で、仏教の中心的、根本的な立場を示す言葉です。儒教にも中庸と言う言葉がありますが、中と言うのは、単に両方の真ん中とか、どちらとも、決定しかねて、まあまあ中を取って妥協するとかいうような生ぬるいものではありません。両方の極端な考え方を避け、両方を否定しながら、しかもそれらを止揚していって、弁証法的なより高い第三の立場に立つことが、中道と名づけられていると思われるのです。「仏伝」の作者は、もちろんこの教典を知っていたことでしょうが、とにかく苦と楽との二つの急枯淡を避けて、中道に立たねばならない。これが「初転法輪経」における最初の説法の言葉なのです。その後でいわゆる「四諦」、あるいは「四聖諦」という四つの真理がこの教典には説かれるのですが、これについては後で触れることに致します。

 中道と言うのは、右のように二つの極端な考えを離れ、それらを否定しながらそれらを超越的、弁証法的に総合する第三の立場として成り立つと言うように考えられます。釈尊の根本仏教としての「初転法輪経」では、むしろ素朴に、現実の生活に即して、極端論としての苦と楽とを超えた中道が説かれたのでした。それに対して、後代の大乗経典では有すなわち存在と、無すなわち非存在との中道が説かれるようになります。また、常住論と断滅論との中道ということも言われます。」(「仏教の源流−インド」長尾雅人、104105頁)

D「この「四聖諦」というのも非常に仏教的な考え方ですが、これは医術の考え方を取って組織されたものと考えられています。というのは、お医者さんはまず、患者の病気がいったい何であるかを知らなければなりません。先ほどの「応病与薬」ということと同じで、まずどんな病気であるのか、そしてその病気の原因は何であるのかを知り、それからその病気を治巣ための方法はどうすべきであるかを考えて、治療に当たるわけです。それと同じく「四聖諦」の一番初めの苦諦は、この病気のこと、我々の世界が病気にかかっていることを知ることです。その病気の原因が二番目の集諦で、四番目の道諦によって病気の原因の愛欲や煩悩を滅して病気を治すのです。そして、病気が滅してなくなった状態が三番目の滅諦です。
 こう言う「四聖諦」というものを説いたのは仏教だけで、他には類例がありません。非常に特色的なものです。そのうちで初めの二つ、苦諦と集諦とが、われわれの輪廻の様相、迷いのあり方を示します。それに対して後の二諦、滅諦と道諦とは、涅槃の世界、悟りの道を示しています。つまりこの四諦の、迷いと悟りとがはっきり対照的に述べられているのです。
 また、その述べ方にも、仏教的な特色が見られるように思います。つまり最初に苦諦という結果的な状態が挙げられ、次にその原因としての集諦が述べられています。普通には原因が先で結果が後ですから、因−果の順で考えがちですが、ここでは果−因の順序になっています。滅諦と道諦の場合も同様で、滅諦が果、道諦が因です。このことは、原因から結果を演繹的に考える以前に、まず結果的状況を直接把握することです。まず、われわれの世界が苦に満ちた輪廻の世界であることが率直に自覚され、それが何故であるかが追求されるというわけです。何よりも問題になるのは、われわれが輪廻の苦の世界に沈んでいるという事実で、その事実を凝視し、自覚し、それを如何に処理すべきかの方途が考察されます。このように現実の把握がまずあって、それが出発点となるという、果から因へという、いわば帰納的であることは、仏教の考え方のいろいろな場面で同様に見られる一つの特徴であろうと思われます。」(「仏教の源流−インド」長尾雅人、156157頁)
E「愚道老人 仏教問答」3954
 「NHKこころをよむ 正法眼蔵」3646
F「こういうふうな形で、一つの小さな節の中でも、道元禅師は釈尊の教えを四段階に分けて、まず精神的な心の面から問題を取り上げると同時に、それを必ずその裏側の客観的な事実としてもう一度説明し直される。それから今度は主観と客観が一つに重なり合った現実の行いの問題として説明されて、究極的には言葉ではなかなか表しにくいけれども、疑いの余地のない実在があるんだという説明をされておると、こういうふうな捉え方が、少しずつはっきりしてきたわけであります。」(20頁)
「この「現成公案」の最初の節を読んでいきますと、「正法眼蔵」のほとんど全巻にわたって見られるところの、最初、心の問題、主観の問題として説明された後で今度は問題を客観的な、事実の問題としてお説きになり、それからその二つを重ね合わせて、現実の日常生活、現実の行いの問題として説かれて、その後で三つの考え方を総合して現実そのものを示されるという、四段階の考え方というものが、どうも道元禅師ご自身が坐禅をしながら長年の仏教修業をされて、その結果、「釈尊の教えの中心はこれだ」ということをお感じになりそのことを「正法眼蔵」の中で意識的にお説きになったのではなかろうかと、こういう推定が成り立つわけであります。・・・・
 そういう考え方でもう一度四段階の考え方が、先ほど問題として取り上げました、古代インドにおいて釈尊がお説きになった「四諦の教え」と関連があるのかどうかという問題を考えて参りますと、私は「正法眼蔵」を読んだ限りでは、どうしても無関係だとは考えられない。釈尊のお説きになった「四諦の教え」そのものが、道元禅師が「正法眼蔵」の中でお説きになっている四段階の教えと全く同じものではなかろうかと、そういう推定をせざるを得ないという立場に立つわけであります。」(「仏道講話()四諦の教え」2728頁)
G「仏道講話()四諦の教え」4279頁参照。
H「仏教の主張としては、一番最初では完全を求めるんです。完全を求めてしゃにむに努力するんだけれども、悲しいかな完全に到達できないという現実を痛いほど味わうんです。それが仏道の一番最初の勉強の仕方です。
 そうして、どうしても理想というものが実現できないのだという経験をした後で、今度は事実がどうなっているかということを夢中になって勉強するわけです。
 そうして、事実が十分良く分かってきた段階で、事実はわかったのだけれども、さて自分の日常生活をどうするかということに関連して、やはり自分の努力がなければだめだということがまた生まれてくるわけです。
 そうすると、環境を良くにらみながら、自分がどう努力しなければならないかということが、我々の日常生活であって、そういう日常生活の送り方を「仏道修行」というのです。
 ですから、そういう点では、最初、理想を求めて一生懸命努力して、どうもうまく行かないといって涙を流す必要があるんです。仏教徒にはそういう態度がないと、次の事実を勉強するというところに行かないんです。」(「仏道講話()四諦の教え」3435頁)
I「ですから、そういうふうな時代が少しづつ進んでまいりますと、単にスポーツだけでなしに、坐禅というふうな修行についても、人々の関心が高まっていくのではないかという期待が持てるわけです。そうして、坐禅も、悟りを開くというふうな理想主義的な努力ではなしに、毎日少しずつ実際にやるというふうな、本当の意味での坐禅の修行が盛んになってくることが期待できるというふうに見ております。
 ですからそういう点では、苦諦・集諦・滅諦・道諦というふうな四段階の考え方が、きわめて理論的に発展してきた西洋の文明と、それから人類の最終の哲学・宗教であろうかと考えられる仏道とを、結びつける理論的な架け橋になるのではなかろうかというふうに見るわけであります。
 そのように、「四諦の教え」が、今日われわれが抱えておる世界の歴史の発展段階とも密接な関係があって、「四諦の教え」を頭に置くことによって、人類が今後、どう言う方向に進まなければならないかというふうな問題にも、一つの示唆が与えられると考えることが出来るわけであります。」(「仏道講話()四諦の教え」54頁)
J「「四諦の教え」というのは、この人間の持っている実情というものを理論的に説明しておられる。・・・・・・

 最初の、「何か一生懸命やりたい」という気持ちが苦諦の考え方。それに対して、「どうせやれないんだから、もう努力は一切やめた」という考え方が集諦の考え方であります。ただ、そういう諦めの状態になって人間が満足できるかというと、満足できない。何とかして自分の理想を実現したい、何とかして自分の意思を実行してみたいという願いは、人類として生きる以上、どうしても打ち消すことができないと、こういう事情があるところから、難しい実生活の中で、理想を追求して、苦心惨憺の努力をしながら、少しずつやれるようになるというのが、われわれの人生の実態であります。
 だから、少しずつやれるようになるという状態、実行するという状態、それが滅諦と呼ばれる立場であります。その滅諦の立場で苦心惨憺して、なかなかうまく行かないときに、釈尊が非常に優れた方法を我々に教えて下さった。それが坐禅という修行。釈尊がどう言うことを主張されたかというと、気持ちを焦らせて、努力しようとしても、それは人間にはできない。逆に、坐禅の修行によって体が落ち着いてきた、心が落ち着いてきたというときには、努力をしなくても、「やりたい」とおもうことがやれることなる。「やるまい」と思うことは、やらずに済ますことができる。だから、坐禅をすることが人生のすべてだと、こういう単純明快な教えを我々に与えてくださった。
 だからそういう点では、「四諦の教え」が我々の日常生活の中で、得てして頭の中で考えた、いろいろな問題に振り回されておる状態から、我々を救い出して実行の世界に導いてくれるということがいえるわけであります。

 ですから、「四諦の教え」というのは、我々の日常生活において、我々を理論の世界から実行の世界に導いてくれる教えだということがいえると思います。日常生活の中で、頭の中でさまざまのことを考えて、不安になったり、悩んだりしておることは、あまり意味がない。「やろう」と思う目先のことをせっせと実行できるということが、人間にとっての最大の幸福だといえるわけでありまして、その点では、「四諦の教え」が、我々に日常生活における幸福というものをもたらしてくれるといえるわけであります。」(「仏道講話()四諦の教え」5659頁)
K「今日、世界の実情は、実に混沌としていて、あそこでも戦争している、こちらでも戦争しているというふうな、はなはだ落ち着かない状態ではありますが、人類が今まで持っていた考え方そのものが、お互い一面的であり過ぎたんだ。相手の考え方も認めて、両方の考え方を一つに重ね合わせるという、新しい立場というものが真実であり、そういう真実の教えを基準にして、我々の周囲の問題を考え直す限り、一切の問題が解決するという糸口が得られるということが言えようかと思うわけでありまして、この一見極めて単純な「四諦の教え」というものが、実は世界の人類を救済する内容をはっきり持って折るということが言えようかと思います。」(「仏道講話()四諦の教え」63頁)

 

 

 

 


C)十二因縁(十二支の縁起)
 仏教は、極めて合理主義的な思想である。この世の一切のものは、一分一厘の狂いもない因果関係によって、すべて束縛されていると説かれている。
 その因果関係および論理関係を示す定式が、無明(無知)から始まる概念である。(@)

  「これあれば、かれあり。これが生ずることによって、かれが生ずる。
   これなければ、かれなし。これが滅することによって、からが滅する。
   即ち、無明を縁として行あり、行を縁として識、・・・・生を縁として老・死
   があり、憂愁・苦悶が種々に生じる。」
 上記に記載したように、縁起の思想とは、絶対的存在は我々の世界のどこにもなく、すべては相対的にのみ存在するという思想(相対性の思想)のことである。

D)八正道
 日常生活を行うための基準である。(A)
 道諦の具体的実践項目である。(B)
  @正見: 正しい世界観を持つこと。  (正しい見解、正しい考え方)
  A正思惟:脳細胞の活動に変調をきたさせるなということ。(正しい思考)
  B正語: 口のきき方を正しくすること。 (語ることに偽りがない。)
  C正業: 正しい行為をすること。    (行為が正しい。)
  D正命: 正しい生活をすること。    (生活の仕方が正しい。)
  E正精進:正しい努力をすること。    (正しい方向への努力精進)
  F正念: 正しい精神状態を保つこと。(自らの行いに正しく自覚的であること)
  G正定: 正しい均衡と調和を保った肉体を維持すること。(正しい禅定・三昧)

 



 何が正しくて、何が正しくないかをどうして判断するか?(C)

             @自灯明:坐禅を継続する日常生活の中で、
     自灯明、法灯明      是とする所を「正しい」と信じる。  
             A法灯明:法に従い、是とする所を「正しい」と信じる。
                 「戒律為先の言、すでにまさしく正法眼蔵なり」
  日常生活における日々の実践               (正法眼蔵受戒)
    

[参考文献]
@「十二因縁がいわゆる法の説明であり、宇宙およびそれを支配する秩序の説明である以上、十二因縁は宇宙を現実に支配する因果関係の説明であり、しかも同時に時間、空間を捨象した論理的関係の説明でもある・・・」(「仏教 第三の世界観」150頁)
A「仏教 第三の世界観」108〜109頁
B「
仏教の源流−インド」長尾雅人、156
C「仏教 第三の世界観」108〜121頁


3.まとめ(私的理解)
(1)仏道の見方
 今までの伝統的仏教の理解は、加持祈祷の世界、不可知、不可視の世界があって、人智を超えた所に、摩訶不思議な力の働く所があるような世界を想像していた。
 しかし、西嶋先生の説明される仏教は、非常にクリヤーで明るく、魑魅魍魎の跋扈しない世界であった。

[西嶋先生の見方]

  今の瞬間、どう生きるかが問題。  人間は、瞬間、瞬間に行動を選択して

  (今を主体的に生きる。)      生きている。

 


   仏教は行動を尊重する宗教である(@)

 

    @仏教は神に類するものを持たない。

     霊魂を認めない。

    A現世を否定しない。肉体を軽視しない。

    B倫理的であることを求め、感覚におぼれることを戒める。

    C行動を重視し、主客の合一を求める。

 

 そして、「生也全機現、死也全機現」の説明は、「生きるときは精一杯生きて、死ぬときは精一杯死ぬ。これ以外にない。」とのころであったと記憶している。この学生時代の記憶は鮮明であり、抜群であり、この説明を聞いて、もうこれで良いと考えた。そして、この社会でどれだけ生き抜けれるか、頑張れるだけ頑張ってみようという気になった。

 

[参考文献]

@「愚道老人仏教問答」1617

 

(2)自分にとっての仏道とは何か?

 西嶋先生の仏道(仏教)の話を聞いて、書斎に籠りがちである自分が、単なる仏教愛好者(「仏いじり」大好き人間)になっていないか、偏屈な人間になっていないか、反省することしきりである。
 水野弥穂子先生は卒業に際して、「仏教を学んでいる(坐禅をしている)ことを他人に覚られてはならない。」と申された。その意味もようやく分かる年になった。
 しかし、今なお、「自受用三昧」は遠く、日々反省と悔恨が続く。

 

[参考文献]

@「仏教と言う思想が、相対的な価値にこだわらず、一度本源的な立場に立ち返って、我々を取り巻いている現実を見直す思想だと言うことが多少理解して貰えたと思う」(「愚道老人 仏教問答」164頁)

A「坐禅のやり方」(改訂版、1983年)

「外界の事物を客観的に眺めて傍観者的な態度を採ることは、必ずしも難しいことではない。しかし、自分自身が主役となり、行為の世界に一歩を踏み出すことには、非常に大きな心理的抵抗が伴い、肉体的な不安が感じられるのである。・・・・

 そして、行為の世界に踏み入ることは、この百尺の竿の上から思い切って一歩を踏み出すことである。結果が果たしてよいか悪いかは、本人の知り得るところではない。ただ、眼をつぶって思い切って踏み出すこと、これが仏道に対する信仰の第一歩である。」(2627頁)


(3)
今何を行うべきか

 西嶋先生は、仏道の目指す所とは「価値観やものの考え方を方向転換する」と言うことがではなく、「日々の行動(実践活動)をその場、その場で的確に行うことである」旨のことを言っておられる。毎日の生活は判断の連続であり、これを的確に行うことが仏道の目指す所であると言われている。

 そして、人間の幸せとは、過去はどうであれ、今を幸せに生きること以外にはないと自分には思われる。従って、明確な目標を立てその実現を目指して、今を夢中に生きることが、幸せの一つではないかと思う。

 そのために、坐禅をはじめとして、日々仏道に親しみ、センサー(体、感情、感覚)を常にバランスの取れたものにする。そして、現代の科学的成果や仏教学の成果を学んで、「自灯明、法灯明」を体現することであり、人に眩ませられない人間、自分の足で大地に立てる人間を目指して、日々の日常生活に努力することであろうと今思い、生きている。

                                    以上