仏教/第三の世界観

(西嶋先生の考え方の私的理解)

 

1.仏教とは何か
 仏教とは仏陀の教えのことである。仏陀の教えとは、人間が幸せになるための道筋を示す教えである。人間とは何か、幸せとは何か、と言う、ものの考え方を教えるものである。今まで経験的に、あるいは体験的に身についてきた見方、考え方でなく、素直に自分と周りを見つめて、自分を生かす一歩を踏み出すことを教えるのが仏陀の教えである。
 仏教の考え方(仏教哲学)は、如何に現実をクリヤーに見るかと言うこと、それに対応して行動するかと言うことに尽きる。
 先ず、人間には、何がしたいか、どう生きたいか、どう成りたいか、と言うことが根底にある。即ち、幸せになりたい、安心したい、心が安らかになりたい、苦しみから逃れたい、etc色々の願いがある。そして、人間の感覚は、暑い、寒いにおいて感じられるように相対的なものであるから、絶対的な「幸せ」、絶対的な「安心」と言うものはない。それぞれの人の状況によって異なる。同じ人でも、若いとき、年行ったときで異なる。従って、自分は、何がしたいのか、どう成りたいのかと言う目的(方向性)を明確にし、どこまでのことを最低限行いたいと考えるのかを明確にすることである。言葉を換えれば、どう成りたいと言う「絶対的な目標」を定めて、どのような状態になれば良いかと言う「相対的なマイルストーン」を設定することが必要である。これを纏めて言い換えると、「将来にわたる人生のグランド・デザイン」がしっかりできることが必要である。この「グランド・デザイン」がしっかりできることが所謂「発心」と言うことになる。従って、「発心正しからざれば、万行むなしく施す」と言うことになるのも、理の当然ということになる。
 この「グランド・デザイン」(発心)ができているからこそ、現実がクリヤーに見えてくれば、体がスットその方向性に則って動くのである。現実に合わせて、犬死しないように目的を達成するように一歩後退二歩前進することができるのである。現実がクリヤーに見えて、足が前に出ないのは、発心が出来ていないことに他ならない。「志の至らざるなり」と言われても仕方のないことになる。「発心」という言葉を言い換えると「切に望む心」と言うことになる。例えば、「幸せになりたい」と切に望むのであれば、色々、知恵も出てくる、足も前に進むと言うことになるものである。腹が減ってくれば、良い匂いが台所から流れてくれば、一人でに足がそちらに進むと言うことになる。

 「道心無き者、僧堂に入るべからず」と言うように、仏教は発心がある人間を前提とした教えである。従って、現実がクリヤーに見える状況になれば、自ずとその人に合わせた行動がなされて行く。
 その人に合わせた行動を行い、その人らしく自分の一生を生きて行くため、現実を如何に素直に(色眼鏡を掛けずに)クリヤーに見るかと言うことが重要になる。そのために手段として(ツールとして)、戒、定、慧の三学が実践の手段として挙げられている。戒律を守ることで、自己の外部環境を整え、波乱と問題に悩まされることのないコンスタントな毎日が過ごせる環境を用意する。そして、禅定を修することによって、自分の心を安定に保つことが重要である。西嶋先生の言われるように、自律神経のバランスが取れるようになることが重要である。このことによって、平静な気持ちで物事が見える(現実が見える)ようになる。静かな水面には月影はクリヤーに映るが、風で波立つ池の水面には多くの光の影がちらちらするだけである。さらに、智慧を磨くことによって、自分の感覚の乱れを修正し、誤った思い入れを是正することができる。智慧を磨くとは、知識を増やすことではない。単に知識を増やすことは、知識欲を充足するだけのことに過ぎず、西嶋先生の申しておられる「ほとけいじり」1が好きなだけの人でしかない。智慧とは、知識を生かすための論理を身に付けることであると考える。それによってこそ、行動が可能となる。伊丹敬之先生の言葉2をもじって言えば、次のようになる。「智慧とは論理だと強く考えざるを得ない。理由は二つある。一つは、世の中の出来事の背景にはやはり論理がある、と言うことである。当事者が明確には意識していないかも知れないが、やはり論理通りに世の中は動く。人間くさい論理も含めて、論理なのである。
 第二に、論理が心理的な迷いの中の判断のよすがになる。意思決定、行動決定とは、実に様々な状況・要因を考えた上での総合判断にならざるを得ない。即ち、不確かな情報と不透明な未来を前提に下さなければならない判断となる。総合的な状況・要因のすべてを完全に知ることも、未来を正確に予測することも、不可能なのである。そうした『不確かで複雑な総合判断』だけに、ちょっとした情報に心は揺らぎ、小さな動きに気を取られ、その時の判断する者の心理が知らないうちに大きく影響したりする。ある面だけを誇大に考える偏った見方、ワラをも掴む希望的観測、いたずらな悲観、すべてが起きがちである。
 だから、論理的に考えることが重要なのである。智慧は論理だと考え、自分なりに納得の行く論理に基づいて判断することが重要なのである。論理が、情緒に流された判断にならないための最後のよすがとなる。
 しかし、論理が自分にとっての最後の判断のよすがとして本当に頼れるためには、その論理体系は自分なりに納得して手作りで作ったものでなければならない。借り物ではダメである。
 もちろん、論理を突き詰めれば正解が得られる保証はどこにもない。まして論理的プロセスだけでいい智慧(アイデア)を思いつくことなど、ないだろう。智慧(アイデア)はしばしば直感的に生まれるものである。しかし、直感的に生まれたアイデアを論理で検証すること、特に、それを素早く行えることは、正しい判断をする確率を高めるために極めて重要だと思う。
 しかも、直感とは積み上げられた論理の瞬間的現われである、と言う。あるいは直感とは、物事の道理について深い哲学を持つ人だけが見ることのできる、一瞬の光であるとも言えるだろう。哲学と論理。それが、いい宗教家、素晴らしい実践家の共通の特徴ではないだろうか。」
 
文献
1.「坐禅のやり方」(金沢文庫、24頁)
2.「経営戦略の論理」(日本経済新聞社2003年、はしがき)



2.幸せについて
 仏教を何のために学ぶか、それは幸せになりたいからである。仏教とは、幸せになるための仏陀の教えである。
(1)
幸せとは何か?
 若いとき、働き盛り、年取ってから、と人間の時期によって、幸せの内容が異なってくる。
 その時期が、成長期、安定期、衰退期の各時期において、幸せの内容が異なる。幸せとは、人が生きて行ける状況にあることが、先ず基本的な幸せであり、その上に、色々な状況における局面局面の幸せが、存在する。即ち、幸せとは、人間の感覚の中の観念であり、それ故、相対的なものである。それぞれの幸せには、次のステージが存在する・
  (相対的幸せ度)/個人の観念感覚の中の世界の事象

                       (目標を達成できた幸せ)   行動の
                  (可能性・目的に向かって努力できる幸せ)幸せ
            (これから生きて行ける幸せ)
      (現在、生きている幸せ)          生存の幸せ

 人間は勝手なもので、そのステージの幸せが手に入ると、すぐに物足りなくなって、次のステージを求める。タバコや睡眠薬の量が増えるように、人間の持つトレランスが働いて、すぐに物足りなくなってしまう。
 更に、幸せの中身も、年と人間の成長によって、幸せと思う中身が異なってくる。一例を如何に示す。
   (体力・能力/気力)





               30歳     60
        (青年期)    (壮年期)   (老年期)
 青年期には、あらゆることに制約があることを嫌い、主体的に行動でき選択できることを大事に思っている。従って、幸せとは自由度があること、可能性があること、将来があることであると考えられる。不幸とは、自由度がないこと、努力しても可能性がないこと、達成できないこと、を言うと考えられる。
 壮年期には、現状維持の中に、将来の発展を期待することから、今まで積み上げてきたものを失うことを、不幸と考える。また、新しくチャレンジすることで、失うことを恐れるが余り現状維持の保守的な考え方に流れてしまう。
 老年期には、体力、気力の衰えと共に、健康面での不安を抱えて、次第に一人になっていく孤独を感じながら生きているため、時間や記憶や体力を失うことに不幸を感じている。
 青年期の「行動の幸せ」から老年期の「生存の幸せ」にシフトして行くように感じられる。


3.自分にとって仏教とは何か
 自分が幸せに生きていくために、現実を見つめて(自分を見つめ、世の中を見つめ)、自分に合った(自分のその時の力量・才覚・性格に合った)人生の歩み方ができることである。幸せとは、自分に合った人生の生き方ができることである。世の中の価値観に惑わされることのない、自分の尺度に合わせた価値観で生きて行けることである。
 このように世の中に合わせて自分が生きていくのではなく、自分に合わせて、その時々の自分に合わせて、自分の持ち味を充分に生かすように生きていくため、自分の環境、能力、性格、適性等の現実を冷静に見ること、見れることが必要である。
 そのためには、現実観察の主体である自分の感情を平静にコントロールし、偏見なく物事が見えることが必要である。自分の感情、感覚をコントロールするために、自立神経のバランスを取ることが不可欠である。そのためのツールとして坐禅が不可欠である。即ち、「只管打坐始得」とはこのことを言う。
 坐禅により、精神が平静になることは、現実把握の前提条件であり、言わば、必要条件である。そこで更に、自分の感覚、知覚が認知した現象を通じて把握した現実が本当に妥当な現実なのかを検証する必要がある。そのためには、自分の感覚に幻惑されないために、論理によって合理的な解釈、推論、検証ができることが不可欠である。即ち、自分が認識した現実を論理的に検証し、その妥当性を的確に確認することが大切である。このように、現実把握のための必要条件が「坐禅」であり、充分条件が「論理」である。このようにして現実を知ること(「敵を知り己を知る」こと)ができれば、即ち、百戦百勝と言うことになる。
 従って、「坐禅が全てであり、坐禅しておれば、一切が整う」というのも一面の真実ではあるが、これは必要条件ではあっても、十分条件ではない。このように、打坐を打坐として知ることも重要である。
 
 このように、仏教は、人生を自分にふさわしく生きていくための実践方法を教えるものである。そこには、何の紛らわしいものもなく、明々白々とした方法論しかない。何の頼るべき神もない。「己こそ、己の寄る辺」あるいは「自灯明、法灯明」と言われる由縁である。さればこそ、神や天を呪う必要もない。その意味で、「仏教は徹底した個人主義である」(西嶋先生)と言われる。
 また、「参学弁道は先ず発心在りきである」(西嶋先生)と言われている。即ち、発心によって、目標が明確になっていれば、ツールとしての「坐禅」と「論理」を用いて現実をクリヤーにすることができれば、ひとりでに目標に向かって足が前に出るはずである。従って、境遇が良かろうと悪かろうと、それを呪う必要はない。その境遇の実情を把握して、自己の目標(発心)に向かって、一歩一歩前に進むことである。それが仏教の示すところであると考えている。
 即ち、仏教とは、幸せになりたい人間に、幸せとは何か(自己の目標:発心)を教え、どうすれば幸せになれるのか(方法論、ツール:坐禅と論理)を教えるものである。
 
 人生をよりよくマネージメントするための方法論(実践哲学)が仏教であると言うこともできる。マネージメントの方法論としては、その対象が人生であっても会社であっても何のかわりもない。その意味で、「仏法に世法なし」(正法眼臓随聞記)と言われる。

3.マネージメント(管理)とは何か?
 個々の項目において全てをうまく行かすことではない。人生でも、事業でも、多くのことを同時並行で行なっている。会社の中でも多くの項目の仕事があり、家庭生活があり、子育てがある。それを、全て常に満足する形で達成できるものではない。力は限られている。この時期にはこれに注力し、だめなものは削除して可能性のあるものに注力する。そして、全体として合計がチャンと収支が合うようにするのが、管理である。
 良い管理と言うのは、儲かった事業、損した事業をいくつも抱えながら、どれを整理し、どれを増強し、毎年毎年収益を黒字にして行き、事業を大きくして行くことである。
 戦争の管理と言うことで考えると、良い管理とは、多くの戦場での勝った、負けたの中で、最終的に勝利することができるように全体の戦争を管理することである。
 従って、良い管理のためには、戦略が必要である。

 人生のよき管理とは、人生の目的を考え、それを達成するためのグランド・デザインを考え、現実に合った実践をして行くことである。人生のある局面では勝ち、ある局面では負ける。負けない手を打ったとしても、負ける時は負けるのである。そこで、負けたとしても、その局面だけに抑えて、全体として勝てばよいのである。
 全体を見ながらの良い管理(戦略)を行うためには、仏教が必要であると考える。現実を見て、時々刻々、多くの同時進行の事柄において、その局面、その局面で、できることを的確に処理して行く。それしかない。現実に合った適切な手であれば、よくなるし、不適切であれば失敗する。全体を見て、力の集合離散を掛けて行く。「木を見て森を見ず」ではなく、「森を見て、木を見る」ことを行う必要がある。そのためには、目的の明確な、自律神経のバランスの取れた自己と、自己の認識する現実を検証できる論理を持った自己の、両方の確立が不可欠である。
 これができれば、如何なる分野、領域においても、自己を全うするための行動が可能である。


4.仏道を学ぶとはどう言うことか
 釈尊は次のように申されている。(「マハーヴァッガ」、1)、2))
「耳ある者たちよ、
 この上なき優れた教えの扉が開かれた。
 (旧来の汝等の)信仰を捨てよ。
 (この教えは、旧来の信仰を持つ)人々を損なうことになりかねない。」
そして竹林氏は次のように言う。
「この梵天勧請の話は我々に、本当に釈尊の教えを聞こうとする覚悟はあるのか、と問いかけて来るものである。釈尊の教えは、世間的な欲望を微塵も満たすものではあり得ない。我々が普通あると思いなし、愛着している自我を、根底から解体せずにはおかない教えでもある。

キリストも言う。マタイ伝(10:34〜37)
「私は、地上に平和をもたらすためではなく、剣を投ずるために来たのだ。何故なら、息子をその父に、娘をその母に、嫁を姑に、敵対させるために来たからである。
このように、(私を信じる者は)自分の家族のものが敵となる。私より、自分の父や母を愛するものは、私(を信じるもの)としてふさわしくない。私より、自分の息子や娘を愛するものは、私(を信じるもの)としてふさわしくない。」
 ルカ伝(12:51〜53)
「汝等は、私が地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。むしろ、対立をもたらすと言うことである。
今から後、(信と不信により)一つの家の中は、5人居れば、3人は2人と、2人は3人と対立し分裂する。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立して分裂する。」

1)中村元選集(決定版)「ゴータマ・ブッダT」449頁
2)インド仏教の歴史(講談社学術文庫、竹村牧男著)47-48頁